1−1. Charlie Parker の『音楽』に関する
筆者の個人的見解

(Last Updated 1998/06/18)



 Charlie Parker の『音楽』について書かれている書物は意外と少ない。これは、今や、Parker の音楽は全ての Jazz の基本として、議論する余地の無いほど音楽理論的には説明可能で(少なくとも記譜された音楽に対しては)、Jazz の音楽理論書に記述されていることそのものが Parker の確立した音楽を含んでいるから、がその理由のひとつである、と筆者は考える。

 例えば、Berklee で教えるのは Coltrane であり、Bill Evans であったという。講談社刊 'John Coltrane A Love Supreme 永遠のジャイアント・ステップス' の中の Malta を含む対談によれば、 Malta が在学した '73年から '76年の時点でさえ、Berklee は『コルトレーン一色だった』という。この事実一つだけをとって事を論じることは公正ではない、ということは百も承知で話を進めるが、最早 Parker は教育の中心ではなかった、ということは記憶されて良い。このことは、Parker の音楽は最早 Parker 独自のものとして教える段階を過ぎ、Jazz の基本理論の中に組み込まれてしまっているため、改めて Parker の音楽として教えるのではなく、Jazz の基礎理論を学ぶことによって、Parker の確立した音楽理論は結果的にその中に入ってしまっているから、と筆者は考える。

 Parker の『音楽』について書かれている書物が意外と少ないもうひとつの理由は、そして Parker の本当のすごさは、このように理論として分析できる範囲を越え、あるいは記譜された音楽では表わせない部分にある、と筆者は思う。即ち、その演奏に感じるスピード感/緊張感、とてつもないソウル、途方もないスリル、そしてその表現力、などなど、聞くことによって初めて感じる(敢えて、理解できる、とは言わない)ことのできるものである。いくら書物を読んでも、いくら理論として学んでも、Parker の音楽の本質までは理解できない。書き手の側から言えば、Parker の音楽を文章で表わすことの困難さ、空しさ、を感じ、文章で Parker の音楽を表現することに意味を見いだせないのであろう。

 例えば、Parker の Omnibook (Ad-lib Transcription) から Parker を Study 始めた人がいるとして、その人が60曲全てを譜面上でマスターしたとしても、その元になったレコードを初めて聞けば、Parker の演奏と自分の演奏/理解のあまりの違いにガグゼンとするであろう。つまり Parker の音楽は聞かないことには始まらないのである(これは Parker に限ったことでは無い、と言えばそれまでだが)。

 Parker は多くの Stock Phrase を持っており、録音された記録の中でもその Stock Phrase を頻繁に使っている。しかし不思議なことに、聞き手の我々がそれを Stock Phrase であると認識しても、またか、という気はしない(少なくとも筆者には)。これが他の多くの奏者と異なる点のひとつである。Jackie McLean などが自分の Stock Phrase を吹いたら、すぐに、またか、と鼻をつまみたくなる。Parker に関してそれが無いのは、Parker が同じ Stock Phrase を何度吹いても、その中に含まれるとてつもないソウルが、その Phrase をしてそこで出るべくして出た Phrase たらしめているから、と筆者は考える。Parker に関しては、その場ではその Phrase しか無い、と誰をも納得させるだけ表現力があるからである。この Parker の表現力こそが文章でも譜面でも表わすことのできないものである。

 かって Dean Benedetti という男がいた。本人自身が Alto Sax を吹き、プロとして活動し、Parker のレコードにあわせて Parker と同じスピードで Parker の全フレーズを吹けるほどの腕前を持った男であった。現に Benedetti が Parker の Donna Lee のレコードに合わせて吹いている記録が Mosaic の Benedetti Box に残っている。この男が Parker の生を聞いた途端に自分自身の Alto Sax を捨て、Parker を追いかけることに一生を費やしたのである。1940年代後半、満足に録音機も手に入らない時代に、重い Disk Recorder を抱えて Parker を追いかけたのである。Parker が行く所全てについて行き、植木鉢にマイクをしかけ、トイレに閉じ篭もって Parker を録音し続けたのである。あの録音器材の乏しい時代にあの重い重い録音機を運んで、北米中を追いかけたのである。しかも Parker だけを録音し続けたのである。Parker 以外にソロが回ると録音機を切り、Parker に戻ると録音を再開する、という徹底振りで、Parker 以外の者には録音する価値を見い出せなかったのである。その Benedetti の記録は、本人が生きている間は多くの Player にコピーされて利用されていたが、本人がイタリアで死亡すると共にアメリカに残されていたはずのこの膨大な記録もどこかに消え、行方不明となっていた。1990年代になってこの記録は Benedetti の家族が(中身の価値も知らずに)保存していたことが判明し、実に、記録されてから50年振りに、発見されたそのほとんどが7枚の CD となって世に出たのであった。(筆者は、発見された以外に、まだどこかにさらに膨大な Benedetti の記録が残っているものと信じているが。)

 もう一人、Bob Redcross という男がいた。彼は1940年代の前半、あの録音ストの時代に Disk Recorder を持って Parker を記録したのである。この記録については、あのベース奏者の Oscar Pettiford が、『Bird と Diz と演奏したいがために、零下のシカゴの街を素手でベースを担いで1.6マイルも離れたホテルへ徒歩でかけつけた。素晴らしいセッションだった。これを Redcross という男が記録したはずだ。』と'チャーリー・パーカーの伝説' (ロバート・ライズナー著) という本の中で語っていた。その記録も1980年代中頃になって、実に40年振りに Redcross が保管していたものが発見され LP となって発売されたのである。これは Parker が Eckstine 時代の1943年に Tenor Sax を吹いていた時代の記録である。
 これら以外にも、Jimmy Knepper や Joe Maini という著名な Jazz 奏者が機会ある毎に Parker を録音し、そのコピーを奏者間で流通させた。その一部はレコードとなって出版されている。ある時は楽屋でモニター・スピーカーの前にマイクを置き、ある時は客席で、その多くは Parker のソロのみを録音した。

 このような『伝説』が Parker のすごさの一端を物語るものとして、虚実合わせて今日に伝わっているのである。

 さらに、あの録音器材の乏しい時代に、かくも多くの人々が Parker を記録したのか、と驚く程の記録が残っている。何故に人々は Parker を残そうとしたのであろうか。録音器材の性能も普及率もはるかに高くなった Miles Davis や John Coltrane の時代でさえ、彼らの録音は Parker に対するほどの情熱を持っては記録されていない。何が人々をして Parker を録音するという情熱をかき立てたのであろうか。

 こういう Parker を記録しようとした人々がいる一方で、記録された Parker の全てを出版しようとしている人々がいる。とてもレコードとして出せる代物ではないような粗悪な音源のものや、曲として成り立っていないような数小節の断片まで、それが Parker の記録であるが故に出版しようとしている人々がいる。

 おそらく Parker に取り付かれた人々は、後世には Parker に相当するような奏者は出ないと確信したのであろう。その脅迫観念が人々をして Parker の録音を、そしてそれらの記録の出版に駆り立てているのであろう。

 Parker の録音は、正規のレコード会社の録音を含めても100時間に満たない。筆者は最近、商業的に出版された全録音を Chronological に(一部正規録音等は会社単位で) MD に収録し、機会ある毎に聞き直している。そして聞く度に圧倒される。これ以外に言葉で表わす術を筆者は持たない。これらの元になっている CD/LP については別稿で触れることにして(For Collectors の項参照)、ここでは詳説しない。

 Player を目指す諸兄へのお願いは、とにかくまず Parker を聞いて欲しい。わざわざ音の悪い物から聞く必要はない。まずは正規に録音された Savoy, Dial, Verve の物のどれかを聞き、次に Massey Hall 等の比較的音質の良い Live 録音を聞いて欲しい。そして、Parker にそれ以上の興味を持って来たら、Rockland Palace の Live を聞いて欲しい。これは、セットとしてはおそらく Parker の最高の演奏の一つである。その後は、初録音から1945年までの録音を聞くことである。ここまで来たらあとは順序は不要である。片っ端から Parker を聞くことである。Parker のすごさがわかった時点で既に貴兄の演奏の腕は上がっているはずである。

 しかし、どんなに Parker に取り付かれても Parker になろうとすることを勧めはしない。何人も Parker にはなり得ない。貴兄が Parker になろうと思えば思うほど、貴兄は自身の限界を悟り、楽器を続けることの困難を悟ることになるだろう。Parker のすごさがわかったら、あとは自分自身の道を歩み、Parker 以外の人も聞いて腕を磨くことである。しかし Parker は聞き続けることを勧める。この繰り返しが貴兄の Player としての腕を上げることになる。

 筆者はこの後に Parker の音楽/演奏に関して記述を続けることとするが、理論的に分析することはせず(それほどのスキルも筆者には無いが)、あくまで筆者の感じるままに Emotional に記述することとする。Player を目指す諸兄へのヒントとして、Parker が残した演奏に関する情報を提供することに筆者は徹したい。ここに記述された情報が諸兄の Player としての成長に役立てば幸いである。

 諸兄の幸運を祈る。

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